昔の石鹸作り
牧歌的でありながら危険だった石鹸作り
アデル・ファンサ氏(1928-2020)は、毎日足しげく工場に通います。苛性ソーダを溶かした釜を指差して言いました。「この釜に落ちるとどうなると思う。死ぬ。確実に死ぬ。昔は時々事故があった。」
石鹸作りは命がけだったのです。
アレッポの伝統を今に伝えた故アデル・ファンサ氏
昔(1950年ごろ)アレッポではトラックはなく、ドラム缶もなく、電気はかろうじて灯りを灯せるほどでした。
全て人力と動物力で運搬や作業が行われました。ドラム缶ではなく動物の毛皮を袋状にした「ダルフ」と呼ばれる容器を使ってオリーブオイルなどが運搬されました。
昔のアレッポ
色々な村からダルフに入ったオリーブオイルがラクダやロバに運ばれてやってきました。
石鹸を作る釜炊きの攪拌作業もいまでこそモーターで行いますが、当時はロバや人が釜の周りをぐるぐると回って混ぜていたそうです。石鹸工場も15社くらいしかなく外国へ大量に輸出していなかったので、のんびりと楽しく作っていたといいます。
アデル・ファンサ社の昔の工場
当時の工場にはアルカリの水溶液を作る釜と石鹸素地を作る釜があり、アルカリ水溶液と石鹸の釜炊きを同時に行っていました。
シナーンと石灰にお湯を何遍も通し、一週間かかってやっと強いアルカリ水を得る事ができました。
ポンプもなく全てが手作業だったため、石鹸素地も一週間かかって800kgしか作れなかったそうです。
1950年ごろ製造に使用していたバケツ
昔はアルカリ水を釜にバケツで移したり、できた石鹸素地を切断のために広げるのにバケツでくみ上げるため、釜は床に完全に埋まり釜の縁は床と同じ高さだったのです。
そのため時々人が落ちたりロバが落ちたりという事故があったので、ファンサ社は縁に金網を張って事故を防いでいたそうです。
、 今の釜の縁はお腹の辺りまで高さがあるので落ちるという事はまずありません。
失われてゆく技術 ― 苛性ソーダ製造法
砂漠に自生するシナン
石鹸作りに欠かせない原料のアルカリ(苛性ソーダ・水酸化ナトリウム)。
今では簡単に手に入りますが、昔はアルカリを作ることから石鹸作りが始まりました。
アデル・ファンサ氏が20歳のころ(1950年くらい)までは、前述の「秘密の書」に記された方法でアルカリを製造しながらの石鹸作りをしていました。
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アレッポで行われていたアルカリ製造方法
1. 砂漠に生えている『シナーン』という灌木を粉末にして焼いたものを利用します
2. 焼きシナーン粉と石灰にお湯に加えながらよく混ぜ合わせます
3. ドリップコーヒーの要領でシナーン粉と石灰の混合物にお湯を注ぎます
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左:焼きシナーン粉・右:生シナーン粉
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シナーン粉と石灰にお湯を注ぐ
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4. 下から水酸化ナトリウム水溶液が出てきます
5. 出てきた水酸化ナトリウム水溶液をまた注ぎます
6. これを繰り返すと一週間ほどで強いアルカリ水が得られます
現在、苛性ソーダは海水を電気分解する事で得られます。安価な苛性ソーダの登場で昔より続いたアルカリ作りは姿を消しました。
アレッポのスーク(市場)では石鹸作りに使用するシナーンが取引され、シナーンを山積みにした何台ものトラックが行き交っていたのも今は昔の話です。
「こいつでアク抜きしたオリーブの漬け物は最高に旨いんだ。」
アデル・ファンサ氏は口をすぼめ投げキッスのような仕草をして、嬉しそうに話してくれました。